公明新聞リレー連載「授業に笑いを!お笑い教師同盟の挑戦」
第24回「お笑い教師の目指す理想の授業」
上條晴夫(代表・宮城県)

(『公明新聞』2007年12月22日掲載)


 現在わたしは宮城県仙台市にある私立大学で小学校教員の養成をしています。まじめな学生が多いです。みんな勉強熱心です。
 でも学級崩壊など最近の荒れ現象が日常化している学校ではまじめで勉強熱心なことはよい教師の十分条件になりません。たとえば、先日、学科の忘年会で聞いた「セミやバッタにさわれない学生が半分近くいる」という話にはかなり考え込んでしまいました。
 東北は自然との触れ合いが豊かと思っていましたが、子どもたちの生活は確実に変わってきたようです。セミやバッタをつかまえる遊びをしないということは、そうした遊び集団がなかった可能性が高いです。ケンカや仲直りをした経験が足りなさそうです。
 たくさんの子どもたちと授業をする教師には「教科書の知識」だけでは不十分で「子どもと楽しくコミュニケーションをする力」が必要であると思います。「笑い」を共有できる力が必要です。
 大学2年生を対象とした講義の宿題に「仮説実験授業」で有名な板倉聖宣氏の論文「楽しいだけでいいのか」のレポートを書いてもらいました。授業史を考える上で画期となる論文です。板倉氏は、授業を「A・楽しくて、分かる授業」「B・楽しくなくて、分かる授業」「C・楽しくて、分からない授業」「D・楽しくなくて、分からない授業」に分けて「A>C>D>B」とランキングします。
 この順位の核心の1つは「楽しくて、分からない授業」を第2位に置いている点です。この論文の背景には、世の中がかつてのようなエリートだけが学ぶ社会から誰もが学ぶ大衆教育社会へと大きく変化したことがあります。筆者は「楽しくなくて、分かる授業」は、子どもたちを(人権的に)スポイルするとまで言います。
 わたしは学生に「(賛成・反対の)立場を明確にして論じよ」と指示しました。学生たちは大いに悩み、そして考えたようです。多くの学生たちにとって、「分かる」は非常に大きな価値だからです。その優先順位を「楽しい」に譲り渡してよいものかどうか。
 ある学生は次のように書きます。「わたしは『楽しいだけの授業』という考えに賛成である。正直、この論文を読むまでは『楽しいだけの授業』で子どものためになるのか、子どもたちに学びを提供できるのか疑問に感じていた。しかし、この論文に出会い、今までのわたしは『楽しいだけの授業』を『楽しいだけの時間』として捉えてしまっていたことに気づかされた。そして、子どもたちにとって『授業』とは何であるかをもう一度見直してみることにした」
 お笑い教師の目指す理想の授業は教師が子どもを一方的に笑わせる授業とは違います。子どもたちとの共感的コミュニケーションをベースにした楽しい授業であると考えます。もしかしたら楽しいだけでいいの、と言われるかもしれません。でも子どもたちの笑いのない授業に本当の学びはない、と言い切ってみたいです。


この文章は、2007年に公明新聞の教育欄に掲載されたものです。掲載にあたっては、公明新聞の許諾を得ております。